2010.3.17

「わが宗教観」

妙法院門跡 門主
会員 菅原 信海 君

われわれ日本人にとって、宗教ということばは哲学的用語という感じが強く、なにか馴染めないことばである。それは何がそうさせているのであろうか。恐らく、宗教ということばは、翻訳語だからであろう。そこに馴染めない原因があるようである。宗教と表現するより、信仰とか信心といったほうが、われわれには馴染めることばである。観音さまを信仰しているとか、信心する神さまは八幡さまである、といった方が、拝む神や仏が、身近な存在となるからである。

日本人の宗教は、個人単位ではなく、家単位での宗教であった。これは江戸時代の寺請制度の名残であって、寺と檀越の結びつきが存続しているからである。したがって、寺と檀家との関係が、個人よりも家単位の結びつきになっているのである。だから、個人に対して、如何なる宗教を信じていますか、との問いに対する答えが、なかなか返ってこないわけである。つまり、家単位の宗教なので、それぞれの菩提寺が決められていて、私の寺は何寺であるとか、あるいは何寺の檀家になっているとか、と決まった寺があった。しかも、その菩提寺の宗派がなんであるかによって、信ずる宗教が決ってしまうのである。信ずる宗教宗派は、菩提寺がなにかによって決っていたのである。

日本人は無宗教とよくいわれるが、そうは思わない。われわれの周辺には、いろいろな祭りや行事が、その土地独特の伝統のもとに、行われている。そして、その寺社の属する地域の人々によって、支えられている。地域の人々は、その祭りや行事に参加して、盛り立てている。このように、祭りや行事に参加することは、意識するしないにかかわらず、宗教にかかわっていることになるのである。このような宗教的かかわりを、なんら意識しないで、祭りや行事に参加している人も多いであろう。お神輿を担ぐ若者は、お神輿に何神が祀られているか、それを全く知らず且つ意識しないで、担いでいる場合が多い。しかし、お神輿には神が祀られているのだから、宗教行事に参加していることになろう。このように現代人は、その祭りを宗教行事とは意識していない。つまり意識しない宗教心――無意識的宗教心と呼ばせてもらっている。

宗教心とは、自分にとっては信仰する心であり、他に対しては安らぎを与える心である。喜捨ということばがあるが、これは財物を寄進する意ばかりでなく、他者に心の安らぎを与えるという精神的な喜捨の意も含まれていることを忘れてはならない。

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