History of Rotary Club of Kyoto

  • 1918年(大正7年)三井信託社長米山梅吉(1868-1946)は目賀田種太郎男爵を団長とする財政調査団の一員として訪米。その折三井物産ダラス支店長の福島喜三次(1881-1946)の紹介で、ロータリーを知った。米山はそこで "自己のためでない奉仕" というロータリー精神に深く感銘したといわれている。福島は1920年(大正9年)に帰国。ロータリークラブを設立しようとしたが、当初、わが国の社会風土はこれに馴染まず福島の目的は達成されなかった。しかし、米山と福島のその後の努力が実を結び、同年10月20日には日本初の「東京ロータリークラブ」を設立し、翌年4月1日にRIの認証(認証番号855)を受けた。その後、福島は大阪に移り、1922年(大正11年)第二の「大阪ロータリークラブ」を設立した。
  • 1923年(大正12年)9月1日に関東大地震が発生、東京を中心にわが国の首都圏は大災害をうけた。時の米国大使S E ウッズはこの災害状況を直ちに米国政府に報告。米国政府は災害発生60時間後には米国駆逐艦を東京湾に派遣し、救助活動に参加させた。米国政府の迅速かつ適切な救援活動にわが国の多くのロータリー会員は深く感銘するとともに、自らの積極的な奉仕活動を実践するために、それまでの月1回の会合から毎水曜日に参集することになった。また、各国ロータリークラブからは多額の災害義援金が寄せられ、これを基礎に震災被害者への救援事業が積極的に行われ、はじめてロータリー活動が多くの人々に認識されることとなった。
  • 米山梅吉はその後国際ロータリーよりSC(特別理事)に任命され、1924年(大正13年)にはわが国の第3(神戸ロータリークラブ)、第4(名古屋ロータリークラブ)のロータリークラブ設立に尽力した。
    京都では、祇園会の先祭後の1925年(大正14年)7月22日、大正モダンボーイ竹上藤次郎が中心となり広岡伊兵衞ら18名が京都ホテル旧館に参集し、京都におけるロータリー運動の第一声をあげた。9月5日に第二回協議会を、9月19日に萬養軒で第三回協議会を開催し、チャーターメンバー25名を選定した。9月25日には東京RCの井坂会長を迎えて、仮クラブとしての例会が京都ホテル旧館で開催され、次のような主要決議を行った。

    名称
    京都ロータリークラブ
    会長
    武田五一(建築学)
    副会長
    竹上藤次郎(生糸問屋)
    幹事
    井上武夫(ホテル経営)
    会計
    宮本儀助(半襟問屋)
    SAA
    塩見 清(観光案内)
    理事
    錦光山宗兵衛(陶磁器製造)
    後川文蔵(新聞業)
    下村正太郎(百貨店)
    広岡伊兵衛(友禅染問屋)
  • 1925年(大正14年)9月28日には京都ロータリークラブ発会式、10月7日付けで国際ロータリーへ加盟申請を行い、10月28日には創立披露宴が開催された。この披露宴には東京RCからは米山SC、井坂会長ほか3名、大阪RCから村田会長ほか7名、神戸RCより3名、名古屋RCより生駒会長ほか1名、ハワイよりクーパー氏らを加え来客20名、地元会員30名が参加した。12月24日京都ロータリークラブチャーターナイトが開催され、米山SCよりチャーター(認証番号2184)が伝達された。なお、京都RCの創立記念日については数多の議論があったが、1974年(昭和49年)3月6日の理事会において、国際ロータリーへの加盟申請が行われた 1925年10月7日 とすることが定められた。
  • 1926年(大正15年)5月7日京都を非公式旅行中の英国皇太子は"京都にロータリークラブがあり、毎水曜日に京都ホテルで例会がある"ことを知り、予告なしに例会を訪問され、会員を驚かせた。このニュースは一般市民にロータリーを認識させるに極めて効果的であった。
  • 1929年(昭和4年)4月27日、28日RI第70地区第1回地区大会が米山梅吉ガバナーのもと京都ロータリークラブをホストに華頂会館で開催された。登録は8クラブから385人。会費は10円であった。
  • 1935年(昭和10年)2月マニラ大会出席のため、ポール・ハリス夫妻、ヒルRI会長一行25名が米国客船プレジデント・クーリッジ号で横浜に到着したが、折からの悪天候で数日間上陸することができなかった。天候回復後開催された米山梅吉主催の歓迎会に出席した後、同船で神戸へ回航。 一行は2月10日朝、鉄道にて京都に到着し、二条離宮、野村別邸を見学後大阪に移動し、大阪にて京都・大阪・神戸連合歓迎会が開催され、これに出席した。
  • 1940年(昭和15年)当時、日本には48クラブ、約2,000名の会員がいたが、国粋的な右翼団体よるロータリーへの誹謗中傷は激しさを増し、時の権力者であった軍部は活動本部を米国に置くロータリーに対する反感を露骨に示した。このような社会的偏見や軍部等の圧力は地方で異なっており、近畿地方は特に強い圧迫を受けた。例会での卓話内容を特高(特別高等警察)へ報告するだけでなく、例会に特高が派遣され、卓話を誹謗するに至った。8月に入ると、京都ロータリークラブ内でのクラブ存続に関する意見の対立は一段と激しくなり、「当局から解散命令がくるまであくまでもロータリーを存続させるべき」との意見(21名)、「軍部がいうように自ら国の方針に従い自発的に解散すべき」との意見(66名)、その他(4名)となった。このような状況下での1940年(昭和15年)8月21日の例会で、望月会長は会長一任の議をうけて京都ロータリークラブの解散を宣した。
    1週間後の8月28日にロータリークラブ解散後も奉仕の精神を継承する会として、「水曜会」の設立総会が開かれた。
    敗戦直後の1945年(昭和20年)9月19日に京都ホテルが連合国占領軍に接収され、水曜会はその開催場所を失った。会員の努力で、その後大丸百貨店の7階食堂で例会を開催することとなった。
  • 1946年4月、日本のロータリークラブ創設者米山梅吉が、同年9月に福島喜三次が相次いで没し、1947年1月にはポール・ハリスがシカゴで没した。 1948-49年度RI会長は、ポール・ハリスの親友アンガス・ミッチェル卿(初のオーストラリア出身のRI会長)であった。ミッチェル会長の命を受けて、1948年(昭和23年)9月RIアジア地区担当事務局長ジョージRミーンズが事情調査のために来日した。彼の報告により "水曜会はRCを継続したものとRIで承認され"、日本の国際ロータリークラブへの復帰の可能性が高まった。RIから提示された復帰条件の一つであった「水曜会の解散」が1949年(昭和24年)3月16日決定され、3月23日ミーンズならびに多数の来賓出席の下、京都ロータリークラブ創立(復帰)総会が開催された。1949年(昭和24年)4月5日京都RCの国際ロータリー再加盟のチャーター(同じ認証番号2184)が与えられた。 未だ強い反日感情が支配的であった国際組織の中にあって日本のロータリークラブのRI復帰を促進し決定したRI会長ミッチェル卿の功績は大きく、特筆に値する。 国際ロータリー復帰後、日本のロータリーは改めてRI第60地区となり、その第1回地区大会は1950年(昭和25年)4月8日に31クラブが参加して、戦災を免れた京都の同志社大学栄光館で開催された。 この大会には日本のロータリークラブの国際復帰に貢献した元会長アンガス・ミッチェル卿がRI会長代理として出席した。

    1954年(昭和29年)10月16~17日、ロータリー創立50周年記念第60/61地区大会が京都市勧業館で開催された。ノーベル賞受賞の湯川秀樹京大教授が大会記念講演を行い、会長代理として出席したアンガス・ミッチェル卿によってハーバート・テーラーRI会長(四つのテストの創始者)のメッセージが紹介された。
  • 京都ロータリークラブは1949年(昭和24年)にRIに復帰。その後クラブ会員数は順調に増加し、当初50名余りであった会員は30年間で250名以上となった。しかし、続く10年間は横ばい状況となり、1990年代後半(平成7,8年頃)から漸減傾向を辿ってきた。
    このような京都ロータリークラブの変遷は日本の経済発展と深く関わっている。
  • 第二次大戦直後から国際的には米ソが冷戦状態にあり、アジアでは朝鮮戦争(1950-1953、昭和25-28年) やベトナム戦争(1955-1975、昭和30-50年)があった。その間の特需により、日本は敗戦の荒廃から立ち直り、さらに目覚ましい経済発展を遂げた。結果、1968年(昭和43年)日本は西ドイツを抜いてGDPが世界第2位となり、1972年(昭和47年)には沖縄が日本に返還された。
    国内的には安保闘争(1960、昭和35年)や大学紛争(1968-1973、昭和43-48年)など世情不安があったが、海外では[Japan is Number One](1979、昭和54年)とも言われ、1980(昭和55年)年代は輸出景気と地価や株価の高騰で好況にわいた。しかし、やがて、膨張したバブル経済(1986-1991、昭和61年-平成3年)は急激に委縮し、その後はグローバル化に対する様々な構造改革にも拘わらず低迷が続き、この長期経済不況は2003年(平成15年)には「失われた10年」といわれた。さらに、2008年(平成20年)にはリーマンショックによる世界的不況に曝される状況となった。
  • 京都ロータリークラブは、これまでに11名の会員を地区ガバナーに送り出し、また、千玄室(1988-90、昭和63-平成2年)、小谷隆一(1998-2000、平成10-12年)の2名をRI理事に送り出した。毎年度、国内・アジア圏の行事に関わりながら、2004年(平成16年)5月23-26日には史上最大規模のRI年次大会が千玄室大会委員長の下45,381名のロータリアンが参加して大阪で開催された。特に、この大会前日の5月22日には "Kyoto Day" が市内23クラブ共同で企画され、京都にあるユネスコ世界遺産を紹介し、日本文化、芸術、伝統が参加者に披露された。同年7月20日にはホノルルロータリークラブと姉妹クラブ提携を締結し、漢陽(1971)、ボストン(1976)、バンコック(1989)、台北ロータリークラブ(1989)に続き、現在まで5クラブとの姉妹クラブ友好関係を維持している。 2005年(平成17年)6月18-22日には、39,460名のロータリアンが参加したロータリー百周年記念大会がロータリー発祥の地イリノイ洲シカゴで盛大に開催され、第2650地区に於いても京都ロータリークラブをホストとして同年(平成17年)4月10日にロータリー100周年記念会員大会を開催した。また、同年(平成17年)10月12日には京都ロータリークラブ創立80周年祝賀会が京都ホテルオークラで多数の来賓、海外姉妹クラブ関係者出席のもと開催された。2010年(平成22年)10月 6日には創立85周年祝賀会が80周年と同様に盛大に開催された。
  • 20世紀後半には、世界各地で地震、地滑り、台風、ハリケーン、河川氾濫等の様々の自然災害が発生し、各国政府はもとより世界のロータリアンが積極的に被災国へ支援の手を差し伸べてきた。2011年(平成23年) 3月 11日に発生した「東日本大地震」は日本の記録史上最大マグニチュード9.0の地震と未曾有の大津波であり、約3万の人命を奪い東北地域は深刻な打撃を受けた。少なくとも55万人が避難生活を余儀なくされ、さらに東京電力の福島第一原子力発電所では地震と津波により緊急デイーゼル発電機13台のうちの12台が破壊され冷却装置が停止し、この結果水素爆発が発生。これに伴う放射性物質の漏洩が検出され、何万人もの周辺地域住民に退避勧告が出された。この危機レベルは最高危険レベルのLevel 7(INES)とされ、1986年のチェルノブイル事故と同じである。日本政府と関係機関は懸命に状況改善に努めているが、地震と津波による被害総額は既に1,700億ドルに上ると推測されている。
    日本の東北地方を中心に発生した地震と津波による深刻な被災状況を受け、世界各国から救助隊が被災地に派遣され、救助活動が行われた。
    ロータリー財団は直ちに長期復興支援を行うための「ロータリー日本・太平洋諸島地震災害復興基金」を設置した。基金設置2週間で約US $ 500,000 が世界から寄せられた。
  • 東日本大地震発生後直ちに姉妹クラブより支援の申し出があり、バンコックロータリクラブ・台北ロータリークラブの支援金とともに、5,000,000円を京都ロータリークラブは災害復興支援基金へ拠出した。
  • われわれが直面している課題は、先進国として初めて経験する長期不況を克服することであり、また、未曾有の3.11大震災からの復興への挑戦である。その道程は長く険しいものである。世界のロータリアンが積極的に日本を支援し、心のこもった励ましを日本人に示していることを胸に刻み、この歴史的試練を克服しなければならない。
  • あとがき:
    京都ロータリークラブの80年余のあゆみは(1)世界的大不況といわれた昭和恐慌期のクラブ創設からその拡張発展の時代、(2)軍部・右翼勢力の台頭と右傾化への圧力のもと細々とロータリー精神を継承しようとした苦難の時代、(3)大戦による荒廃と敗戦後の混乱の中から国際社会復帰に向けた努力とその後の発展、よりなっている。2011年3月11日の東日本大震災をうけ、いま、われわれは大きな試練に直面しているが、波乱に満ちたそれぞれの時代に先輩諸氏が直面する課題にいかに立ち向かったかはまさにドラマそのものであり、また、われわれの将来に対する貴重な教訓を示している。

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